昭和57年9月18日 朝の御理解 ●③、⑨、⑤ 【入力者:梶原佳行】
御理解第90節 「上から下へ水を流すのはみやすいが、下から上へ流すのはむつかしい。道を開くというても、匹夫の俗人から開くのじゃから、ものがむつかしゅうて暇がいる。神のおかげで開かせてもらうのぞ。たとえ一時はむつかしいことがあっても、辛抱してゆくうちには徳が受けられる」
真の信心ということがお道では言われますが、真の信心が分かるまでが下から上に水を流すように難しいと言うのかと思います。真の信心が分かり、真のことが分かったら、それこそ上から下へ水を流すように、みやすうおかげがいただけれる。また日々が楽しゅう有り難う、昨日の御理解じゃないけれども、毎日が元日のような心で、日が暮れたら心からお礼、神恩報謝の心で、それこそ大晦日のような心で過ごす事が出来る。
●③結局真の信心を目指すということ。その真の信心を目指すということがね、合楽では誰でも真の信心になれるように説かれてある。それが一切神愛論です。一切神愛とこう分かった時、初めて真の信心が分かったということになる。●
ね、いわゆる頭で分かるのじゃなくて、もう体験に体験を積んで、実験実証なるほど、この世の中には神愛だけしかないんだなぁと。一切神愛だなと。分かる時に、どんな場合であっても、ね、お礼の言えれる心が開けてくるのです。
神様は銘々氏子一人一人の上にお働きを下さるんですね。しかもその氏子が本当の幸せになることのための働きがあっておるんですね。それもどういうことであっても一切、信心があろうがなかろうが、そうなんです。そんなら病気やら、災難やらなからにゃよいて。そういう意味じゃないです。病気もあって良し、災難もあって良し。その病気が災難が神愛と分かる時に、初めてこの世の中には人間氏子幸せにせずにはおかんという働きだけしかないんだという事が分かる。初めて真の信心が分かってくるわけですね。
ね、だからその真の信心が分からせて頂く為に、日々信心の稽古をさせて、信心の稽古というのは、教えを頂いて、それを実験実証して行くということです。
昨日、田主丸の小野先生が毎日あぁして、本当に毎日もう何十年間合楽通いをしておられる、病院の院長先生ですけれども、んー、この頃患者がえらい少なくなったとこういう。で私は、この頃総会の時に見えておりましてね、ちょうど、私の目の前、( ? )本当に私の横であり、お話をする時には、目の前に座っておられましたから、あの小野先生の何十年前の話しを皆さんに聞いて頂いたんですよね。
菊栄会の方達と、(いちのせ?)窯元に、あの見物にまいりました。ところがそこの陳列に大きな額皿に、「天然地念」と書いた皿が飾ってございました。あら、これは字引きを引いてもあらな、こりゃもう当時の椛目の御理解なんだが、だれが書いたのだろうかと。というて聞きましたら、これは田主丸の小野病院の院長先生が書かれましたと聞いて、「天然地念」と書いてあった。
ね、天然とは、自然の然、天は天ですね。地念は、地に念ずるとこう。で昨日、小野先生そんなお届けをされますから申しましたことでしたが、あのあなたが天然地念を椛目時代に覚えて、あの天然地念で、信心をさせて頂いておったら、今頃はもうたいした病院になっておっただろうね、というて話したことでした。
●⑨なるほどお願いをするおかげを頂く。お願いをするおかげは、一つも信心が進まん、同道回り、昨日御理解で。ね、お互いその同道回りの信心ではね、何時まで経っても、いわゆる真の信心は分からんのです。一切神愛ということが頭で分かっても、ね、一切神愛ということが、本当に実験実証させて頂いて、この世には神愛だけしかないということが、こう確信、信心の確立というのは、そういう一切神愛論が、頭でも心でも、体でも分かった時だと思うですね。そこには、何もお礼申し上げることばっかりなんです。●
ね、で自然に起きてくる、椛目のその時分に説かれた御理解なんですね。自然に起きてくる、いわゆる難儀なら難儀というその問題。けれどもそれはね、自分で苦労しようと思って苦労が起こったのじゃない。天然である。その天然の例えば難儀を、苦労をです、ね、地に念ずる心。いうならば大地に平伏したような信心。一心にすがるということなんです。ね。
●⑤善導寺の原昌一郎さんが、大変悪い悪い時に、まぁ両親が信心になられたわけですが。もう医者はもうだめだというし、親戚、もうその晩は、もう今夜が難しいということで、親戚の方達は葬式の、遠い遠方の方達はね、準備をして見えたというほどしに、大変なことであった。
丁度ある月次祭が終わったところであった。それこそもう亡くなられましたが、昌一郎さんのお父さんですね、原せつこさんの連れ合いです。が、んー、それこそ夏のことでしたから、ランニングシャツ一枚で、もうそれこそ自転車で、もう真っ青になったようなあの表情で、お願いに見えました。
神様に私お取次ぎさせて頂いて、ね、まぁお話をしたことでございましたが。もう親先生どうぞ一つ、あのもう助けて下さいとは思うしません。もう半分な死んどります。もう半分なあきらめとりますといわれました。それで私は、ね、半分なあきらめちから、半分な死んどるならもうしまえとるじゃんのち私が申した。あの時分は大変激しゅうお取次ぎさせてもらいよりましたから、もうそれこそあの雷が落ちたような大きな声で私が申しました。
そげなことならここにお願いくる必要なかじゃんの、半分なあきらめとる。半分な死んどる。諦めておりますて。先生ほんなこと言うち下さいという意味なんです。ね、それで、私がそげなこつ言わんのね、これから帰ってから、裏の畑にどん座って、天地にすがりなさいち。ね、天に任せよ、地にすがれよとこういわれるが、その御理解を聞いてもらいました。●
もうむつかしかろうというが、もうそれこそ、それから起きてくる事柄、問題というものはもう、奇跡というより他に手がないような働きを受けながら今日の、あの健康を頂いておられるんです。それがまぁ原さんの信心の、まぁ根本になったわけでもありますがです、ね、ですから、そういう生きるか死ぬかというような問題ですらも、ね、原家にこれからの本当のおかげが頂けるための元であったということが分かるでしょうが。
それで、ならそれからもう何十年になりますからです、ね、その地念、いわゆる、えー、天然地念のいうなら信心を体得して、ね、先日もうしました、いわゆる地真水心である。地の真。ね、水の心。
もうとにかく黙って治める土の心でいく事。素直に素直に水の心というのは、器に従うと言う心。素直な心で、ね、信心をさせてもらう時に、なるほどこれが真だな、真の信心だなということが分かるのです。水の生態を思う時、ね、土の心を思う時。土の信心が身に付く、水の心が身に付いて初めて私は信心、真の信心が分かったと言うことになる。その前提として、いわゆる天然地念がいるということであります。
その天然、自然に起きてきた事を、もうただ合掌して受けるというようなことがいわれますけれども、なかなか受けられません。そこに、それこそ大地にどんずわって御祈念、天地にもう任せて、すがるというような一心の信心。そういう時がいわば人間凡夫のことで相分からずであり、または、ね、んー、天に任せて地にすがるといったような時はね、いわゆるまぁ、下から上へ水を流すような時代じゃなかろうか。だからここをやっぱり通りぬけにゃいけんです。
ね、そこから、真の信心が分かってくる。なるほど真の信心とは、いわば地の心。ね、地の真とある。水の心とある、いうならば素直に素直に、ね、御理解を頂きながら、自分のよいように、もう自分で理屈をつけてから、自分の良いようにするからおかげはないと言われる。
ね、それを素直に、もう本当に水の心で、土の心で頂き抜こうという頃には、もう有り難くなってきて、信心がね、天然地念を通って、そして地真水心の信心にうつって行く頃には信心の喜びも楽しみも段々実験実証が出来てくるようになり、なるほど真の信心とはこれだな、真の信心とはこの、いうなら土の心でいく事だなという風に分かって、もう信じて分かってくるようになるから楽なんです。いわゆる神愛が分かってくる。
一切神愛ということが分かれば、ね、信心はね、楽だというのです。分かるまではやはり、いうなら天然地念の本気での信心、下から上へ水を流すように難しいけれども、ね、それを素直な心で受けて、ならそのような心で、土の心で精進して行くうちにです、生まれてくるのが本当のおかげなんです。真のおかげ。ね。
真。真、真というが真の信心とは、ね、地真、地の真。土の心で私共が受けぬくという、そのことが実は不平不足ね、不満で受けてはならん。それは神様が私に下さる修行として、受けるということが本当なことだ。それが神様が氏子信心しておかげを受けてくれよという、おかげの受けられる土台にもなるのだということが分かってくる。
信心とは結局、本当のことが分かるということ。本当のことが分かるから、例えば信心がない時には不平を言うたり不足を言うたりしよったことがです、むしろそのことに対して、神様は私を中心にして働いておられるんだということが分かってくる。
ね、神愛の現われであるということが分かってくる。だから不平やら不足やらこうじゃらやら言われるはずがないです。ね、そこからいよいよ、ね、人間のまぁ幸せの条件というものは、ね、心の上だけではなくて、形の上にも整うてくるということであります。
お道の信心でいわれます。真の信心、真の信心といわれるが、なら真の信心とはということを合楽ほどに、もう絶対の真を、真として教えたり説くところはないと思うです。だから真の信心を頂く為に、まず天然地念の信心を身に付ける。その時がいうなら厳しいといや、厳しい。難しいということは難しい。私が原さんに申しましたように、ね、どうこうじゃない。もうとにかく天に任せて、地にすがる時。大地にどんずわって御祈念をせずにはおれない時。ね、そこから天地が反応示して下さる。いわゆる奇跡が起こってくる。
ね、初めてそれが天恩ね、神愛であることが分かる。なら三十数年前のなら原さんのところで、そういう難儀は問題、死ぬか生きるかというような問題を通して初めてあれが神愛であったと、それはこれから原一家の助かりが出来れば出来るだけ、あれが、ねあれが神愛だから、その後のことは一切が神愛として受けることになる。
ね、その神愛と頂ける時にです、もうこれは上から下へ水を流すようにみやすいことになり、有り難い事になり、どんな場合であっても不平を思わんですむいわんですむ信心が育ってくるのです。
だから、やっぱりそこを徹底しなきゃだめです。全てのことにまず一つ、天然地念の信心を持っておかげを頂く。そして素直に、ね、自分で理屈をつけたり、自分のいいようにせずに、ね、地真水心の信心が身に付いて来る時に、はー、真とはこれが真だと、本当なことが分かってくる。本当のことが分かるということは、一切神愛ということが分かるということ。
一切神愛ということが、本当に、いわゆる心でも体でも、いや頭でも分かった時、そこにあるものはお礼を申上げることだけしかない。不平もなからなければ不足もない。ね、思わんでもすむような心の状態が開けて、だからそういう順序を正しい教えがしてあるのですから、それをやっぱり一つ一つ自分のものにしていかなければ、昨日の小野先生じゃないばってん、何十年間お参りをして来て、さぁ困った時にお願いします。どうぞお願いしいますと例えば言うて、お願いをしておかげを頂いたという信心が何十年続いても、それは同道回りである。
ね、そういう信心ではです、ね、本当のいうならば信心による助かりという事は言えません。ところが皆がその、ね、やっぱ同道回りながらもお願いをする、お取次ぎを頂きおかげを頂くで止まってしまう。
先日から頂くように、いうなら向こうへ降りたら安心じゃという、その神様が安心して下さる信心とは、私共が一切神愛と、身も心まで分かった時、ね、神様が安心して下さるという事になる。そういう神様に安心して頂くような信心をね、いよいよ身に付けようと。ほりゃ大変な難しいことじゃろうじゃなくてです、ね、その気になれば誰でも出来る信心修行が求められて、ね、いわゆる一段一段という本当なことが、始めの間は分からなかった。神愛といわれても分からないけれども、天に任せて地にすがるという一心の信心が出来るところから、おかげを受けた。ね、そのおかげを受けたところから、ね、素直な心で、地真水心の信心が出きるようになる。
真とはこれだと自分ででも確信が出来るようになる。そこから初めて本当なこと、一切神愛ということが分かってくる。そういうおかげをね、やはり目指さなければいけませんです。お参りをしてこれとこれとこれをお願いして、お取次ぎを頂いたからもう安心と言う安心とは違う。安心とは、神様が安心して下さる信心をいうのである。そういうところから一つも、こう一歩も出てないで、同道回りの信心で過去百年の金光教は歩いてきたように思う。
合楽で御理念がいわれるようになって、そういうところをなら教えて頂くけれども、それを身に付けようとしないならやっぱり同じことであります。ね、私は、あの椛目時代の天然地念の御理解を頂きよった時分には、あの時分には椛目自体が天然地念の時代だったろうなぁと思うんです。ね、もうとにかく大地に平伏して、それこそ大地にどんずわって御祈念しなければおられないような時代であったと思うんです。
そこを通っていくうちに、初めて、ね、本当に神様のおかげが分かるようになり、ね、素直な心で地真水心の信心もまた楽しゅう有り難う出来るようになり、一切神愛ということが分かってくるようになり。本当に不平を言うてはならん、思うてもならないことを思うたり、言うておったりしておることが、おったことが、ね、本当に相済まんことであった。こういう心の状態に家中の者が、自分の周辺にそういう広がりが広がっていったら、もう素晴らしい平和の世界が生まれてくるだろうと、こう言えたり思えたりするところまで、信心を目指さにゃいけませんね。どうぞ。